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「定本 上田城」より |
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沼田城は、群馬県沼田市の中央にある小高い河岸段丘上に築かれた城です。倉内城、霞城とも呼ばれています。
沼田城は、天文年間(1540年頃)にこの地方の豪族である沼田顕泰が築いたといわれています。当時は小規模な砦であったものであろうが、利根郡の中心という地理、越後から三国峠越えで関東に出る喉元を押さえる軍事上重要な場所であるという点から次第に大きな役割を果たすことになっていきました。
天文21年(1552)、関東管領上杉憲政が越後逃亡後、沼田氏は小田原北条氏に従いましたが、越後の長尾景虎に攻められ、永禄3年(1560)には沼田城を攻略してここを関東計略の拠点としました。
武田の先鋒として西上州の岩櫃城を手に入れた真田幸綱(幸隆)は、この沼田城への進出をうかがっていました。
天正7年(1579)、真田家を継いだ真田昌幸は利根郡へ進出、名胡桃城や小川城を味方に付け、天正8年には北条氏の沼田城代藤田信吉を調落させ、攻略してしまいました。これより沼田城は真田氏の上州経営の拠点として長く支配されることになります。
天正9年、沼田氏の当主、沼田平八郎景義が地侍を集めて蜂起、危うく攻略されそうになりましたが、昌幸は謀略をもって平八郎を討ち取ってしまいました。昌幸がこのとき平八郎の首実検を行ったという「平八郎石」は今も城内に残っています。
天正10年、武田氏滅亡に伴い沼田城には織田氏の家臣滝川一益が入城しますが、本能寺の変により織田信長が討ち取られると滝川一益は伊勢へ去り、この合間を真田昌幸が見逃さずに沼田城を回復、一門衆の矢沢頼綱に託しました。
天正13年、沼田城の問題が元で徳川家康は大軍をもって上田城攻撃を開始しました。同時に沼田城には北条氏直の大軍が攻めかかりましたが、矢沢頼綱がよく守りこれを撃退してしまいました。
天正17年、豊臣秀吉の裁可により沼田城は北条氏のものとなるが、名胡桃城が真田氏のままであることに反発し、名胡桃城を攻め落としてしまう。ここに小田原の役が始まり、戦後、沼田城は再び真田氏のものとなりました。
真田氏の初代沼田城主は、昌幸の長男である真田信之です。信之は領内や城下町の整備を行うと共に慶長元年(1596)から城内に5層の天守閣を建設し、二の丸、三の丸の整備を行いました。
沼田城主は信之のあと、信吉、熊之助、信政、信利と続いたが、五代信利の時に藩政失敗を理由に、天和元年(1681)改易となり、真田氏の沼田城は終わることになりました。このとき沼田城は天守閣などの建物は破却され、堀なども埋め立てられてしまいました。
現在の沼田城は、そのあと沼田に入った本田氏、黒田氏及び土岐氏により修復されたものです。 |
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沼田城の遠景
沼田城は、河岸段丘が利根川へ突き出た突端の地形を利用して築かれました。
河岸段丘を利用するという点では、上田城と共通しているかもしれません。 |
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沼田城の入り口
昔の三の丸入り口付近です。左側に駐車場がありますが、この手前に深い空堀が掘ってあり、土塁も見られました。 |
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沼田城の水堀あと
上田城と同じく、広大な窪地はこのようなグランドに利用されています。 |
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本丸の石垣
天和年間に沼田城は破却されたのですが、かろうじて残ったと言われる本丸御殿の石垣です。
その上の大木は御殿の桜と言われ、真田昌幸お気に入りの桜です。 |
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発掘された石垣
こちらは、天和の破却のさいに埋められたと推定される遺構です。
石垣の積み方などに戦国期の特徴があるとのことで、真田時代の遺構であると言われています。 |
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本丸にある平八郎石
天正9年、沼田の豪族である沼田平八郎景義が地侍を集めて蜂起、沼田城は危うく攻略されそうになりました。
真田昌幸は謀略を図り、沼田平八郎を「だまし討ち」してしまいました。
この石は、平八郎の首をこの上にのせて、首実検を行ったと言われています。 |
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正覚寺山門
沼田市内にある大きなお寺です。 |
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小松姫の墓
小松姫は本田平八郎忠勝の娘で、真田信之に徳川家康の養女として嫁いできました。
関ヶ原の役の際に、西軍に加わるため上田に向かう途中の真田昌幸が、沼田城に入ろうとするところを、小松姫が武装して入城を拒んだという逸話が残っています。
小松姫は元和年間に埼玉県鴻巣で死去し、その墓は鴻巣、上田、そしてこの沼田と3カ所あります。 |
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鈴木主水の墓
鈴木主水は名胡桃城を真田昌幸から任されていたのですが、北条方の謀略により、名胡桃城を奪われてしまいました。
これを恥じた主水は、沼田正覚寺へ入り、切腹して果てたといいます。
なお主水の子、鈴木右近忠重は真田信之の重臣として働き、93歳という長寿を全うした信之の先に死ぬことなく、その葬式にも立ち会い、その後で殉死するという人生をたどりました。 |