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「定本 上田城」より |
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名胡桃城は沼田市の西北、月夜野町の利根川右岸にある城で、三国街道を押さえ、対岸の沼田城を監視する位置にあります。
この城は明応年間(1492〜1501)に名胡桃景冬が築いたといわれています。永禄12年(1569)には鈴木主水正重則がこの城の城主となっていました。沼田城を攻略しようとした真田昌幸は天正7年に矢沢頼綱を沼田城攻略に当てると共に名胡桃城の鈴木主水、小川城の小川可遊斎を味方に引き入れ、天正8年、沼田城を攻略しました。
天正17年、豊臣秀吉は沼田の問題を裁可し、その結果真田昌幸は沼田城を北条側へ引き渡しました。しかし吾妻郡や名胡桃城は真田のものとなったこの結果に北条方は不満を持ち、11月、沼田城代猪俣能登守邦憲は突然、名胡桃城を攻め落としてしまいました。このとき鈴木主水は城を留守にしており(北条方の謀略によるともいう)、不覚を恥じた鈴木主水は沼田の正覚寺に駆け込み、切腹をして果てたといいます。
この名胡桃城の事件に対し、豊臣秀吉は小田原の北条討伐を決意し、天正18年、小田原北条氏は滅亡します。これにより豊臣秀吉の天下統一もなされました。
名胡桃城の現状は、三の丸のすぐ外側を国道17号の月夜野バイパスが通り城跡の環境は激変したが、深い空堀や急な崖をうまく利用したその構えはいまだに残っていて、興味深い城跡です。 |
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三の丸馬出しと空堀あと
月夜野バイパスはちょうど三の丸と外郭を隔てる空堀の中を走っている。
三の丸からこの空堀へ突き出る形で馬出しがつくられており、この内側の主要部の虎口を形成している。
観光駐車場になっている低地は、そのまま空堀の跡といってよい。実際にはほかの空堀同様、かなり深く掘ってあっただろう。
パイパスの向こう側も名胡桃城内で外郭とよばれており、空堀の跡や段差、土塁の跡が見られる。
名胡桃城は、このように道のすぐそばにあるので、見つけやすく、立ち寄りやすい城址です。 |
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名胡桃城三の丸から見る二の丸
三の丸及び二の丸の間は深い空堀が掘られていて、土橋のような虎口で結ばれている。
雑草が多いが、ほかの城跡のように樹木が生えるに任せて全く放置させているのとは違い、見通しが利くようにしてあるのは非常によい。空堀の底も見えるので、防御施設としての空堀の存在を改めて実感できる。 |
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二の丸から本丸へ
二の丸から本丸の間の空堀はさらに深く、幅も広くなる。幅は8m、高さは最大で10mを越えるだろうか。
細い土橋のみが二の丸と本丸をつなぐ道であり、両側は現在よりもさらに急な崖になっていただろう。各郭の入り口も桝形を設けてきっちり守っている。
このような地形に林の中で遭遇しても、周りの見通しが利かないからただの窪みとかきつい坂だなで終わってしまう。
ちゃんと整備してあるから、城跡として、防衛陣地として、この地形を確認できるのです。
月夜野町に感謝!です。 |
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本丸からささ郭へ
本丸の先、段丘先端の郭へもものすごく深い空堀を越えて行かなくてはなりません。向こう側の通称ささ郭へは空堀底の土橋を渡って斜面を斜めに横切り、さらに郭の入り口も斜めの桝形を形成しているという厳しい構えを取っています。 |
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名胡桃城の碑
名胡桃城の本郭に石碑が建っています。
この城は小さいながらも、豊臣秀吉の天下統一のきっかけを作ったという、歴史的に重要な場所でもあるのです。 |
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般若の郭
三の丸、二の丸、本丸と続く段丘と深い谷を挟んで隣の段丘に般若の郭という広い郭があります。位置的に見て、それからこの広さから見て、城主の居館があったと見てよいと思います。 |