岩櫃城  IWABITSU−JOU

                           「定本 上田城」より

岩櫃城は、建久年間に吾妻太郎助亮によって築城されたといわれています。岩櫃山の中腹を利用した大規模な山城で、天険の要害であった。戦国時代には上杉・武田の攻防の舞台となりますが、永禄六年に真田幸隆の内応工作により落城します。以後、真田氏の支配下にありました。武田氏滅亡の際には真田昌幸が武田勝頼を迎える準備をしていた城でもあります。

この岩櫃城の特徴はなんといっても二の丸から放射状に伸びた竪堀と、これを横につなぎ連絡路として利用されたとも考える横堀の存在である。
また、岩櫃城を外から支援するために天狗の丸及び柳沢城という2つの出丸あるいは出城を築き、強固な構えを採っています。

現在。吾妻町市街からは平沢地区に登る車道があるため、自動車にて城の口まで簡単に入ることができます。
登山派にはJR吾妻線郷原駅より、岩櫃山越えの道もあるそうですが、かなりきついらしいので、私はこの道は行ったことがありません。

朝もやにけむる岩櫃山

JR吾妻線郷原駅より見る。
「岩櫃城は岩櫃山にある。」これを聞かされて、この山容を見てしまうと、それだけで行く気がなくなる。

でも、ご心配なかれ。城自体はこの山の向こう側にあって、決してこの山の頂上にあるわけではないのです。

岩櫃城の入り口「城の口」

実はここにくるまでは完全に舗装された道を快適にドライブして登ってきました。平沢地区まではいるこの細道を見つけられないと、ちょっときついかも。
ここは「城の口」と呼ばれる場所で、いわば大手門のような門のあった場所といわれています。横を天狗の丸と呼ばれる曲輪が守っているかなり厳重な場所です。、

天狗の丸

天狗の丸は「城の口」を守るとともにいわば出丸として、単独の砦の機能を果たしていたと考えられています。
いま、岩櫃神社が中心部にあり、5月にはお祭りが開かれます。

岩櫃城の竪堀

岩櫃城の竪堀は非常に特徴的で、本郭直下から放射状にふもとに向けて下りています。これは、攻撃側の横方向の拡散を規制する目的のほかに、逆に上から攻撃するための突撃路ともなったと考えられています。

中城

山の中腹に「中城」と呼ばれる広い曲輪があります。下から来た道はここで二手に分かれ、一方は二の丸から本郭へと城の中枢に登っていきます。もう一方は山の中腹を横切り、居館のある曲輪に続きます。
ここにも、ただの駐屯地ではなく、屋敷のようなものがあったかもしれません。

今は栗畑となっています。

二の丸への虎口

中城を跡にした道は、いよいよ城の中枢部に入ります。
この坂虎口から先は、深い空堀に厳重に守られた二の丸、さらにその奥に本郭が見られます。

二の丸を囲む空堀

二の丸は戦闘時の指揮所となっていたかもしれません。とにかくこのような深い空堀によって厳重に守られ、その堀も横矢が入れられるようにくねくね曲がっています。
さらに突撃路ともなる竪堀が放射状に下がり、この横堀がこれらの竪堀と交差して連絡路となる。

こんな立派な空堀が見られるのは、めったにありません。これを見るためでも、一度は岩櫃城に足を運ぶべきと思います。

二の丸

二の丸は、空堀からの高さが10m以上あり、まさに攻撃の拠点となる場所です。

本郭の腰曲輪から本郭への虎口

本郭には一段低い腰曲輪が巻いてある。二の丸から入ってくる道はいったんこの腰曲輪を経由し、本郭へ至る。腰曲輪も高い切り岸によって厳重に守られている。
本郭へは写真の左から右上へ斜めに入る桝形を形成している。

岩櫃城本郭

本郭は長方形をしていて、北東側(二の丸に面して)に櫓台(物見台?)を設置したと思われる出っ張りを有している。
広いため、ここに城主の居館を設置したとも推定されている。

岩櫃城の碑

本郭の中央に設置してある。

本郭を囲む土塁

本郭の北側は急な斜面のため、特に人工的な防御設備は作られておらず、高い土塁をはわせてある。
土塁の上を道が続いており、岩櫃山山頂まで続く。頂上には遠見番所があったのだろう。
左側が腰曲輪。斜めに道が登ってきている。


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